白骨章
あと1本レポートを書きさえすれば春休み到来なのだが、その1本をなかなか始められない。
祖母の法事に参列した。
お経セットリストはいつもどおりといった感じだっただろうか。
お気に入りのお経があるのだが、今回はそれは読まれなかった。もしかしたら、法事ではなく葬式で読まれるものなのかもしれない。
白骨の章
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。あなかしこ、あなかしこ。
蓮如による御文。調べてみたところ葬儀・四十九日・一周忌などで読まれるものらしい。
いつもエンディングで読まれる印象がある。
朝には顔色が良くても、夕方にはただ白骨となっている身である。今日か明日か、人か自分か、その順序はわからないのが死である。
内容についてはよくある話かもしれないが、非常に文学的でいい御文だと思う。実際に坊主の音読を通して聞くと、自然と故人を想起し、実にありがたいお気持ちになる。
最後に残っているレポートが、死後の世界についてのもので、歴史的・宗教的に死生観について考える必要がある。
まだ全然書いていないのだけれど、授業を少し聞いたり本を読んだりする限り、来世もほとんど現世と変わらないと考えていた例が多い気がする。
現世がゴリゴリの官僚制なら、来世もしっかりと官僚制だし、来世は楽園に行って幸せになれると思い込んでいるようだけれども、現世で庶民だった人は来世でも扱いは庶民だったりする。来世まで格差社会。
大事なのは、人々がどう考えていたかを考えることであって、自分が来世をどう思うとかは全く関係ないのであるのだけれど、いくら来世のことを考えても自分の知っている枠(=現世)からはどうしても離れられないのかもしれないな〜と思った。
今回のブログはオチはなし。
あなかしこ。あなかしこ。
なまんだぶ